スポンサーサイト

--/--/-- -- --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
読みながら大事な点を抜き出したものです。その時重要と思って書き出したのですが、何のことか分からないところがあるのはご容赦ください。

-----------------------------------------

無意識内の存在して、何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが通常の意識活動を妨害する現象を観察し、前者のような心的内容の集合を、感情によって色づけられた複合体

フランスの精神医学者アンリー・エーは、その名著「意識」の冒頭に、「意識していると言うことは自己の経験の特殊性を生きながら、この経験を自己の知識の普遍性に移すことである」と述べている。

このような経験の主体であり、意識内容統合の中心をなすようなものを「自我」と呼ぶことにする。

料理に関する多くのことが、彼女の心の中で一つの集合をなしており、それは強い嫌悪感や、羨望の感情に色づけられているからである。

自我もコンプレックスの一種であると考えることができる。ただ、これは他のコンプレックスと異なって、安定度が高く、運動機能と結びついているわけである。

彼の苦悩は、コンプレックス喪失の苦しみであり、コンプレックスを失ったための空虚さであると考えられないだろうか。

全ての人は何らかの劣等感を持ち、それを補償しようとして「権力の意志」が働くと考えた。

コンプレックスと言う限り、それは感情によっていろどられていなければならない。感情の絡みつきのない自分の劣等性の認識は、むしろコンプレックスを克服した姿である。

そのことについての劣等の認識は彼の自我の中に統合されており、何も安定を揺さぶられないからである。

死ぬより仕方がないというほどの劣等感と、世界の悩める人を救ってみせるほどの優越感が共存しているところが、劣等感の特徴である。

自我の一面性を補償するものとして、コンプレックスが大きい役割を果たしていることに注目して頂きたい。

コンプレックスを持つことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤を起こすものが存在していることを意味しているだけである。

コンプレックスは心的生命の焦点であり、結節点である。

コンプレックスには感応現象が存在するといいたいほど、同種のコンプレックスは影響しあうように思われる。

他人のコンプレックスを自分のそれで勝手に増幅してしまって現実を無視した判断を下してしまうわけである。

コンプレックスの共有がその集団の成員を結ぶ最大の絆であり、コンプレックスの強度が強いほどそのような強力な連帯感は、成員の個性を殺すものとして作用し始める。

コンプレックスの「解消」は、何らかの意味で死の体験を伴っている。

自我は何事かを言語化し概念化することによって、それを自分のものとする。しかし、このような概念化によって「体験」を限定し、自らの安定をはかっている。

イメージはそのような概念の防衛を突き破り、自我に一つの直接体験を得させるところに大きな意義があることが解る。

どの解釈が「正しい」かなどと考えるよりも、どのような解釈がその人の自我を改変し自己実現を進めてゆく上で役立ったかを問題とするほうが良いかもしれない。

夢の中の自分はコンプレックスとの強い関連性を生きている自我の側面であり、コンプレックスと自我との対決を通じて自我の発展が生じることを考えると、それが自我の発展の可能性を示すものであることも了解できるのである。

コンプレックスというものは感情の複合体であるから、愛憎の感情が入り混じり両価的な態度となって現れるので、単純に異性の親を愛し、同性の親を憎むとは言い切れないものがある。

人間の自我の確立を象徴的に示す「火」の神話においてプロメテウスは大神ゼウスの火を盗み出す。これに対し、わが国の神話においては、グレートマザーとしての女神伊邪那美が自ら火を産み出し、その火傷のために死んでゆくのである。

この「甘え」も私流に言えば、日本文化における太母の元型の影響の強さに帰することができると思っている。

全てのコンプレックスは個人的体験の中で抑圧されたことが、いろいろな元型とのからみ合いによって成立していることが了解される。

その人個人の神話を発見することと言っていいかもしれない。
書評 | コメント(0) | トラックバック(0)
コメント

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。