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自分自身との関係

2009/12/29 Tue 12:52

宗教画・仏像・曼荼羅・経典・聖書などは神聖なものを形にしたものですが、実はそれらは外にあるのではなく、無意識の中に存在する象徴を、それを認識できた人がそのイメージや意味、関係を忘れないために外に投影したのかなと思うのです。外部に投影されたものが切り離され、信仰の対象になるなどは、それぞれの内部にある神的なものとの関係を忘れることであり、また、自分自身との関係を忘れることになるのでしょうか。

夢について考えていると本当に意味や価値のあるものはこころの中のとても深い場所にあるのではと感じます。ただ、そこへ辿り着く困難さは、竜と剣が出て来る様な神話・伝説においての、目的物へ至る道の険しさと同じぐらいなのかもですね。

内部にある聖なるものの投影と同様に、内部にある悪を外部に投影するということもあるのでしょうか。怒りを感じたり不快に思うのは、自分が抑圧している「影」の投影と言われますが、もっと大きな悪、普遍的・絶対的悪についてだとどうなるのかはよく分かってません(´・ω・`)ニョローン(考え中) ただ、聖なるものと同じように、悪を外部にあるものと捉えるのは、自分自身との関係を忘れることになるように思えます。
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コメント
No title
neoさん、こんばんは。
連続コメントですいません。
なるほどな~って思いながら読ませてもらいました。

名前をつけて、かたちをつくった瞬間から、その本質からは離れていってしまうのかもしれませんね…。
儀式や、あるいは今よりももっと闇や森が深かったころ、一瞬の恐怖や畏怖にカミが宿る、と最近読んだ本にあったのを思い出しました。
名前のないカミから、名前のある多神教、そして一神教とすすむにつれて、己自身とは遠ざかっていくのかもしれませんね…。

大きな悪、絶対悪には長らく私も興味を抱いてきました(厳密にいえば人はなぜ争うのか、食べる必要もないのに殺し合いをするのか、ということに旧ユーゴに行った頃からずっと考えています)。
それも含めて自分の中にある、とは私も同じ考えです。
No title
「心理学と錬金術」のマンダラ夢についてのところを読んでいる時に、絵として残されている曼荼羅が元々は瞑想や夢などで見たイメージを忘れないためや、内的な関係を維持するためのトリガーとして使っていたのではと思ったのです。宗教の創始者が偶像化を否定したのも、崇め奉るのではなく、創始者と同じようになれるんだという考えからかもです。

影についても、投影しているのに気づかないことは色々な気づきを阻むことなのでしょうか。

>名前のないカミから、名前のある多神教、そして一神教とすすむにつれて、己自身とは遠ざかっていくのかもしれませんね…。

確かに洗練されていくにつれて遠く離れていき、集団の維持や勢力拡大が目的とされるようになったのかもですね。

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